近頃私は死というものをそんなに恐しく思わなくなった。年齢のせいであろう。以前はあんなに死の恐怖について考え、また書いた私ではあるが。
思いがけなく来る通信に黒枠のものが次第に多くなる年齢に私も達したのである。
三木清著『人生論ノート』の最初の章「死について」は、上記の文から始まる。
私はあまり「死の恐怖」について考えたことはなかった。どちらかというと、「死は、目覚めることのない眠り」であり、「眠る時に『二度と目覚めない』とは思わないように、死を迎える時も『今死ぬんだ』とは思わず、ただ眠くて仕方がなくてすーっと眠りに落ちていく」ようにイメージしていた。
まだ若い頃に、友人や会社の知り合いが亡くなった時も、悲しみは感じても、恐怖はなかった。それは、多分、死が身近ではなかったからだろう。
今、親の死を経験したり、自分の人生をより考えるようになると、死というものが身近に感じられる。そして、今更ながら恐怖を感じる。これからの経験で、この恐怖はまた変わっていくのだろうか。
著者は次のように書かれているが。
私にとって死の恐怖は如何にして薄らいでいったか。自分の親しかった者と死別することが次第に多くなったためである。もし私が彼等と再会することができるーこれは私の最大の希望であるーとすれば、それは私の死においてのほか不可能であろう。